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2005年 12月 31日
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マレーシア北東部は雨期も終り、晴天が続いています。
12月18日。マレーシア国境へいく寝台列車にのる。初夏的快い風が窓から入る。ヤシ林のみえる田園風景を南下。 19日、寝台車の窓の外は大洪水。雨期のいつもの光景。あちらこちらに水没したゴム林や集落。そして人の歩みほどのスピードになった。レールの下面10センチのところまで水がきていた。フリースを着たタイ人がハジャイから南へは走ってないと、ケイタイで聞いたという。飛行機かバスしかないがどうするという。「時間はたっぷりあるから、洪水がひくまでホテルで待つから、ノープロブレムだよ」と答える。仕事のある人は大変だ。 遠くに高層ビルがみえた。線路脇の水没した民家の屋根に腰かけてる人もいる。車掌に聞く。ノー、コーロク(終着駅名)インフォメーションに問うと、いつ復旧するかわからないといった。 ハジャイ。この町は5回目だが、2回は旅行。あとの3回は寝台列車がなくて、仕方なく泊った。 ミニバスは4倍以上の料金。いくらタイでも一本しかない国鉄だ。4、5日あれば開通するとのんびりかまえる。 結局4泊、5日目の乗車。 5日ぶりに復旧したタイ国鉄は30分遅れで出発。5時間走り終着駅スンガイコーロクへ。マレーシア側の税関が終っているから泊まる。国境の町特有の歓楽街があり、イスラム過激派の爆弾テロがよくある。宿は連れ込み宿。170バーツ(約500円)だが清潔感があり、リーズナブル。雨がふったりやんだりの雨期特有の天気。夜も雨音が響いていた。 翌朝、歩いて10分ほどのタイ側国境へ。付近は大洪水。しかし出国を待つ車の長い列が伸びていた。川が国境で1分ほど歩いて橋を渡る。 マレー側入国。バスターミナルへ行くまで2ヶ所ヒザ下まで冠水。水の中を重いザックを担いで、ターミナルへ着くと、ナント! バスがいない!ここはホテルもないから、1時間もしないでマレー出国。タイ入国。ふつうこんなことをすると係官から質問をうけるが、洪水で困っているというと両方ともスムーズにスタンプをくれた。 宿のオカミは、少しの同情と客の少ない時期なので大喜びして迎えてくれた。 ここで水が退くまで、3泊する。 車中一泊、ハジャイ4泊、スンガイコーロク4泊、1泊2日の工程を 今回は10日かけてマレーへ入ることになった。 1/29日 は 中国正月で、中国人街はほとんど店が閉っています 正月休みこの間はマレー料理を3食たべることになります。 # by ma-chanh | 2005-12-18 17:30
2005年 12月 14日
バンコク実質一日目は3ヶ月ぶりなので、屋台も、車優先の青信号も、凹凸の多い歩道も、すべてがおもしろい。
二日目、バンコク、チャイナタウンも一気に日常化。すべてがまあたのしいかナァーって感になる。これも恒例の散髪屋へいきカット、50バーツ(約150円)で頭が軽くなる。たいていは十分ほどで終る。洗髪は自室のシャワールームで。以前のアゴ髭を剃っている時に突然首のせ台がガクッーとなった。幸い切り傷もなかったが、以後絶対にカミソリは あててもらわない。日本ではもう21年間散髪にはいってない。帰国直前にカットして、入国直後にカットするパターンだ。 異国ではある種の友好的敵地意識が消えず、背筋ピーンで常に囲りに警戒は怠らない。このゆるやかな緊張感はマイノリティーでしか味わえない快さである。 12月18日昼過ぎ、マレー国境へ向かう寝台列車に乗る。これがとんでもないところへ進んでいくことになるのですが、また次回に。 # by ma-chanh | 2005-12-14 17:30
2005年 12月 14日
バンコク実質1日目は両替屋へ。キャッシューは銀行レートよりもいいので、銀行はほとんど使ったことがない。まだ円安が続くと思い5万円両替。その後、一気に円高に転じた、序盤から失敗。これも異国の遊びのひとつ。まあ旅すべてが遊びなんですが。
一日のルーティングは馴染みの屋台巡り。朝は下町の町工員相手の裏呂路のぶっかけ屋台へ。ごはん皿の上のお菜を二品かけたものが15バーツ(約45円)。50ぐらいのオバサンがやっているが、30年も営業していて、外人客はボクが初めてで唯一なで、年に十数回いくだけだが、顔中笑顔にして、大盛サービスしてくれる。 ナムトクいう豚肉をサッーとあぶり小切れにして甘ピリ煮した屋台も唯一の外人客で、カオニャオ(モチ米)を手で握りながら食べる。そして豚肉煮肉丼をごはんにのせたタァームゥー。ラーメン。その間に目についたものを食べる。どれも一食100円もしない。 スイカの切り売りも日に3~5個は食べるから、スイカ半分ほど食べている勘定だが、一個30円ほど。 東南アジアは物価の安い国がほとんどで、料金を気にすることはない。といっても大衆向クラスの外食ですが。ビンボー人のボクにはありがたいことです。 # by ma-chanh | 2005-12-14 15:30
2005年 12月 14日
機を出るなり南国タイのあたたかい空気に包まれた。今朝までの日本の寒波を思うとTシャツ1枚のしあわせ。あたたかさは喜び、あたたかさはしあわせ。今回の旅の目的のひとつは寒さからの脱出。旅というよりも渡り鳥みたいに好きなところ、母国日本と住みやすい土地を往来きしているみたいな近年の旅ライフ。
入管に20人並んでいたから、30分はかかった。機内預け引取りのコンベアへいく。他の2便と一緒だが、マイザックがでてこない。十数分捜すがない。ローストラッゲッジーでどこかへいってしまったと考えた。以前カイロからバンコクの荷が東京までいってしまい3日間待たされた。CXオフィスへ行きかけて「CX DEL ivery」の標識の下をみると、オー!マイザック!白人の20人余りのバックパッカーのグループがいたから、間違っておろして放置していたのだろう。まあヨカッタ。 空港前のタイの国鉄に乗る。窓から入る風が実に快い。寒い日本なんてキライ。やっぱり冬は南国だ!。1時間ほどで中央駅へ。 チャイナタウンの常宿へ、250バーツ(約750円)。連れ込み宿でダブルベットに古くさい鏡台、ロッカーがあり、トイレシャワー付。水シャワーは夜には少し冷たい。南国といえども冬だから。 馴染みのラーメン屋台へ。一杯25バーツ(75円)ラーメン。タイ風に砂糖とナンプラー(魚醤)をかけて食べる。そして駅前の屋台食堂で豚肉煮込かけごはんを食べる。91日ぶりのなつかしいタイの味。長年通っているから故郷の味的。 9時半には広すぎるベットへ。出国日は、いつもウキウキしてほとんど眠ってないし、機内は「大空の旅」でもったいなくて眠ってなどいられないのだ。一気に爆睡へ突入。 # by ma-chanh | 2005-12-14 12:30
2005年 12月 14日
12月14日。出国日。荷物を少なくするために、フリースのジャケット、薄セーター、衿シャツに、下はタイツとデニムのズボンなので、ザックをおろしたJR始発便の中でクシャミを6連発。
師走の夜明前の闇を走ってゆく。少し寒い車内は、体も気分も縮んで柔軟さがない。闇も寒さも嫌い。 関空2つ手前で、やっと朝の薄明になる。気分が一気に華やぐ。 冬冷えの空港はクリスマス前でもあり乗客は少ない。 CX502便、雲海上昇中に、光の輪の中に機影が映る、いわゆるブロック現象である光輪がみられた。ずいぶんと飛行機には乗っているが、自分が操縦するわけでないから諸条件が合わず2回目。ラッキー! 機内食は中国(中華ではない風味つけで、年々まずくなる感がある。10$ほどの予算だろうから文句はいえない。パーソナルテレビで「STEALTH」やっていたがノイズがやたら多く、イヤホーンを交換してもらったが、本体が不調のよう。クラシックを聞きつつ新聞を読む。エコノミーは日本の新聞がなくなり、「South Chaina Morning Post」はいつも昨日分。5、6年前、バンコク-大阪間はJALが1番安く6回続けて乗った。日本的こまやかなサービスは一級品だった。キャセイも少し勉強しろ。でも大空の旅は非日常感が大きくステキ也。 香港の空港トイレで、いつものようにタイツを脱ぐ。読み終った新聞を敷いてやると実に動作がしやすい。空港の端から端まで歩くから、着くいつもボーディングが始まっていた。 ムンバイからドバイまでのフライト便の機内食のチキンカレーはピリーと辛く額に汗が滲んだ、インド人好みにしているのだろう。 珍しくベトナム、ダナン上空から雲がなくなり、カンボジアの広大で乱雑な田畑が眺められた。いつも大陸の上は雲海になっていることが多い。 隣のシートの三十過ぎの女性はにこやかでいいが、飛行機に乗り慣れていなくてか、動作の度に肘で二十回余りも触わられた。バスなどぎゅうぎゅう詰めがふつうなので、体が触れるのはしかたないが、機中じゃセクハラもんだよ。女性だから許してやる。 # by ma-chanh | 2005-12-14 06:30
2005年 09月 14日
2005年 08月 25日
今まで陸路で何十回国境(ボーダー)を越えたことだろう。鉄道の車内入国手続きで済んだものもあるが、ほとんどは出国側から数十メートル歩いたり、バスで移動したりした。1メートル先も見えない猛烈な砂嵐の中で、フードを被り後向きに歩きつつ越えたパキスタンの砂漠のボーダー。たまたま乗り合わせた人の世話をやいてやったために大揉めして拘束されたチベットのボーダー。通関に3時間もかかり、バスの時間ともで5時間にもなり、ボウコウがパンパンになりトイレを捜しに外へでるなり、兵士にマシンガンを突きつけられたが、必死の形相とボディーアクションに兵士も苦笑しつつ指さしてくれた戦時中のイランボーダー、「ポッカポッカカイロ」を理解してくれなくて麻薬類と疑われたスウェーデンボーダー、ワイロを要求されたりなどなどいろんなことがあったが、たいていは事務的にスタンプをポーンですんできた。
異国間を人と物が出入りする国境の町は独特の雰囲気を持つ。川を越えフェンスをぬけると、同じ大地なのに町の様子がガラッーと変わる。言葉が通じなくなったり、服装もいく分異なったりした。国境というと合法的出入りと非合法いわゆる密輸はつきものだ。ツーリストの目につくものは少ないが、国境手前で列車から次々と荷を放り投げたり、通関を終えると、バスのドライバーの仲間はお祭り騒ぎに陽気になったりした。乗客は隠れみので、一攫千石的な荒稼ぎになったのだろう。新聞にも連日のように密輸記事が載っている。密輸というと麻楽類、金、銀とか兵器などを連想してしまうが、米数トンや牛、豚、ヘビ、亀、鳥(すべて食用)干したエビ、魚など日常的なものが多い。ヘロインや兵器とかの没収はカラー写真で大きく載っている。 20数年前に仕事していた頃、日本から韓国へ向けて大規模な密貿易が行なわれていたが、知っている範囲ではごく身近な品ばかりといってよかった。小さいものはヘヤーピン、女性用下着、衣類、ウォークマンなどの小型の電化製品、腕時計などであったが、その金額がすごいのだ、ウォークマンなどは新型が発売されると、その日は国内でトップ売り上げをしていた。日本国内では商行為そのもので、売り先から密輸出品として数百人というポッタリアンという運び屋の手によって持ち出された。 この地で他に多いのは人。つまり密入国者。入国管理局が奇襲により捕えたというニュースもよく目にする。パキスタン人、インドネシア人、フィリピン人とかが多い。先日はオカルト教の教祖がタイの村へ逃げたとあった。ハリマオこと谷豊も英国植民地時代のマレーで、金持の華僑を襲って、官憲の追及が追ってきたら、タイ側へ逃げて、ほとぼりが冷めるのを待った。仏教国タイだが、南部はイスラム教徒が圧倒的に多い。独立運動が強く毎年多数の死者がでている。去年だけでも700人以上の死者がでた。今年2月末、死傷者が50人以上でた爆弾テロから一週間もたっていない街を歩くのはあまり気持ちよくなかった。この町の先にあるタイとの国境は川で河口は100メートルほど巾があるが、日中でも税関前を素通りする渡し船があり、何回か声をかけられた。中流の国境付近は川巾10mほどなので橋が閉められても、夜になればフリーパス同然に物が往来していることだろう。 国境の町は正規の交易と密輸で成り立っている。政府側に追われたゲリラが銃撃戦の後越境したりすると、治安上問題として突然国境が閉められた。どこの反政府ゲリラ組織にも隣国が裏で資金援助しているという表向きにはいいづらい理由もある。正規の交易が止まれば、当然密輸は増えるがとてもカバーできるはずもないから、相方の利害から数ヶ月で再開する。途上国では密輸などに供って税関がワイロを要求するのがあたり前だし、下の方は生活費の一部に繰みこまれているから真剣にやる。たまに正義感の強い世間知らずのボンボンのトップが着任したら、一気にルートが乱れて大騒動になった。でもすぐ周りから圧力がかかってか、1ヶ月もしないで元に戻っていた。日本もそうだが、ほとんどの税関は出ていく分にはほとんどチェックしない。入国の際は厳しいこともあるが。 国境の町には常に大ドラマが地下で進行しているのだが、当然ながら関係者以外にはみえることはない。世の中すべてそうだ。なにごとも真実なんて絶対に表へは出ない。事が重大、巨大であるほど。あと2週間ほどで、のどかなタイ、マレーシア国境の橋を渡っている。 2005/8/22 # by ma-chanh | 2005-08-25 22:15
2005年 08月 24日
今年になって、この小さな国境の町は建設ラッシュなっていた。1997年のアジア通貨危機以来長く冷えこんでいた経済も回復して5%台の経済成長になってきている。といってもマレーシア全体で、この州は前回に書いたように日系企業がたった2社しかないような、カンポン(村)を寄せ集めたようなところである。町の中心にある古い民家群や建物を取り壊してショッピングモール付の高層ビルがいくつも建設中である。バブル経済再来の感がある。こんな小さい町でオフィスビルが一気にできてもテナントが入らないと思う。実際、今年初めにオープンした4,5階建てのビルのほとんどは、テナントが入っていない。世の中には甘い夢だけをみて起業する人が結構多かった。わざわざ大金をドブへ捨て、苦労だけ残るだろうというタイプはすぐにわかる。
世の中の厳しさを知っているはずの4、50代になって、退職金や借金をつぎこんで、数年もしないで倒産した人達をかなり知っている。赤子の手をひねるみたいに簡単に潰せることもけっして少なくない。そしてこれは性分だから治らない。「火傷」が少なくてすめば上等という感。この町でも半年後にいくと、店閉いや別の店になっているケースは最近よく目にした。圧倒的な数の庶民という人々をごく一部の目先の利くやつが食いものにしている。時には大企業という名前がついていたりする。弱肉強食は日本でも異国でも世の仕組である。今建設中の大ビルのオーナーたちはそれなりの切れ者だろうから、部外者には計り知れない勝算があるのだろうが、町の規模からしてあまりにもその数が多すぎる。地元の華僑に聞いても、経済はよくなってないし、物価も上がっている。そのうちに全部潰れてしまうだろうとバカにしていた。去年まではあちこちにあった4、5階建ての空ビルは次々と「燕の宿」になっていた。テナントの出た2階以上の窓という窓は燕が出入りする直径25センチほどのパイプを2本か4本付けてブロックやレンガで塞いでしまう。安価で1番手っ取り早い利用法であるから町中に30軒ぐらいあると思う。「燕の宿」は高級中華料理である燕の巣を採るためである。問題は「お客」の燕である。生息数が限られているから、かなりの供給過剰である。鳴き声のテープを流したりしているがまったく入っていないのも多い。早い者勝ちで、後発組は苦労している。何事もビジネスは厳しいのだ。先見性とアイデアが勝負だ。うまくいけば相当な収入になるよう。つい4、5日前の新聞に、4人のドラッグ中毒者が燕の宿へ忍び込み、3000リンギット(約9万円。庶民の約3ヶ月の収入)相当の巣を盗んだとして逮捕されていた。燕の宿にした部屋は糞の臭いが染み付いて、他へは転用できないから半永久的に使うことになる。夕方の町のあちこちではピイーピイーという大合唱と乱舞が見られた。ここにいるのは陸燕で海のとは別種だという。 去年末に大津波の被害に遭ったタイのピーピー島はリゾート地になる前は燕の巣が採れる島として有名だった。隆起した大鍾乳洞が開口部を海へ向けていた。小船で渡ると糞の臭いが強烈にし、歩くと地面がフワフワした記憶が戻ってきた。コウモリもずいぶんいたから両者の何百年にもわたる糞の推積なんだろう。南米のグアノは風雨に曝された岩場に海鳥の糞が何百年と推積したものだから、しっかり締ったものになっていたことだろう。グアノはヨーロッパへ肥料として輸出され、多くのイレデイオやイースター島の原住民らが劣悪な環境で奴隷的に働かされて悲劇を生んだ。 燕の方は巣の採集だけで、板で作った粗末な椅子が何段と継ぎ足して、天井の闇へ伸びていた。危険で孤独な仕事だ。最近のリゾート地になるまでは、毎日が台風時の大波の海になるモンスーン期以外はイスラム教徒のジプシー漁師が住んでいた。当時は粗末な小屋のような家に暮らしていた。航海術の未熟な頃は絶海の孤島だったろう。竹取物語のかぐや姫も婿希望者の一人に燕の卵(?)を取ってくるように難題を出していたと思う。海燕の巣は山海の珍味として珍重され、1種の仙楽として食べられたのだろう。 燕の巣のスープはバンコクの中華街の屋台でも売っている。6年前に給食用に使われるようなコップ一杯で50バーツほど(150円)だった。値上がりして2倍になっていても300円ほど。2回食べたが半透明で少しコシのあるビーフンみたいでたいしておいしいとは思わなかった。いい食材と料理法で高級店ならずいぶん味が違うのだろうが。ボクには日本のソーメンの方がずっとおいしい。毎年来ているこの町。燕の宿が増えてないといいのだが。 2005/8/24 # by ma-chanh | 2005-08-24 21:59
2005年 08月 15日
一気にマレー半島を西から東へと、バスは走る。ペナンから南下時と同様の風景が延々と続いた。日本へ相当輸出されている植物オイルを探るアブラヤンとゴムのプランテーション、そして熱帯雨林の緑の海を、ゆったりしたカーブとかるいアップダウンをこまめに繰り返す道路が伸びていた。かなりスピードがでていたから、首を伸ばしてスピードメーターをみると、ナント動いていない! マレー半島最大のバス会社の定期路線なのに。まあこんなことは途上国じゃ珍しいことじゃないが。そして4時間半、やっと町が現われた。空軍基地があり、道路沿いに商店が並びだした。一気にクアンタン州の州都だ。日本感覚では小さな町ってとこ。河口に木の杭を板に打ちつけた短い桟橋があり漁船が水揚げする。河川港と、白とブルーを基調にした現代風なモスクがある。ここは五年前と十数年前に来ていて勝手がわかっている。バスターミナルから十分余り歩いた。つまり町はずれの中国人経営の宿へ。相応に歳月がたっている造りで、セミダブルベッドが2つ、鏡台、洋服ダンス、トイレシャワーがついて25リンギット(750円ほど)を20に値切る。宿帳をみると、14室ほどあるが、この1年ほど一日2、3人ほど。泊り客のいない日も目につく。ほとんどすべてが一泊。外人はゼロ。前回8泊したが、宿主には「なんで、そんなに泊るのか?」と不思議がっていた。本当になにもない漁師町って感じだから。夜しかでない中華のフードコートの料理がおいしいから2回ずつ食べたいのだと答えたら納得していた。甘煮牛肉片を入れた釜めしは好物だった。もうひとつの楽しみはF-18ホーネット前回、街はずれを歩いていたら、横からパワフルな低音が響いた。見あげて仰天!50メートルほど横を流れるクアンタン川の60メートルほど(機長から推測して)上をF-18がと飛びぬけていった。一瞬的光景だが、静止しているようにみえたほど印象深かった。小さい町とはいえ十数階建てのビルもいくつかある。日本では絶対許されない飛行だ。当時はファイターに関心が深い頃で大感激。F-18の再来を期待して、獲物を捜すハンターのように空を見あげて歩いた。何回も遠方での訓練飛行はみられたが接近シーンはなかった。ビギナーズラック的なクアンタンの歓迎だった。今回もF-18が見れることを期待していた。もうひとつの楽しみはクアンタン川の造りだした、水平線まで続くかと思うほどの広大な干潟である。小形だが美しいキサゴなどの巻貝が無数に採れた。貝の採取は小学生の時の趣味だった。今回は6日滞在したがF-18はおろか他の機影さえも一回も見えず。大干潟は大潮を過ぎていてさほど浮きあがらず。釜めし屋は廃業していた。期待ハズレばかりだが、これもこの町の別の一面である。それをみれたことは又、よしである。旅なんて遊びなんだから、晴天もよし、雨天も又趣きがあってよしである。
2005/8/15 コタバルにて # by ma-chanh | 2005-08-15 21:02
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